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海外フットボールに関するちょっと萌える話
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リオネル・メッシ(バルセロナ)は、母国アルゼンチン出身のチームメイト、ガブリエル・ミリート(バルセロナ)を頼りにしている。ミリートがバルセロナと契約する以前から、メッシは彼のことを尊敬していたという。
元バルサ副会長、フェラン・ソリアーノの著書『ゴールは偶然の産物ではない』の中にも、ミリートとの契約は「メッシが彼のことを尊敬していることを知っていたので、二人ならお互いに助け合ってうまくやっていくだろうと思った」と、彼らの良好な関係が契約の重要な要素だったことが記されている。
プライベートでも仲が良く、メッシは自分のブログに「今夜はミリートの家にアサード(焼肉)をしに行く」などと書くこともある。
ミリートは、07-08シーズン終盤のCL準決勝対マンチェスター・ユナイテッド戦で負った怪我のために、二年近く試合から遠ざかった。そのため、バルサが三冠を達成した08-09シーズンは、偉業を達成したチームメイトたちの活躍を苦しいリハビリの合間に傍観していることしかできず、シーズン最終節の優勝セレモニーにも姿を現さなかった。
セレモニー中、メッシは自らマイクを取り、そんなミリートにエールを送った。
メッシ「今夜ここに、おれたちと共にミリートはいない。彼は来たがらなかったんだよ、ばか(boludo/アルゼンチン)なやつだよな。でもここにいないとしても、彼はいつだっておれたちをサポートしてくれた。彼はとても大変なシーズンを過ごしたけど、すべての瞬間をおれたちと分かち合った。だからこれ(優勝)は、彼のものでもあるんだ」
09-10シーズン、メッシはリーガでサラゴサ戦、バレンシア戦で連続ハットトリックを決めた。サラゴサ戦では、三点目を決めた直後にミリートのもとへ一直線。親友と喜びを分かち合った。





物語は03年、北ロンドン・バーネットのノリーン夫人の家で始まった。それは、夢と笑いに満ちた、セスク・ファブレガス(87年生・現アーセナル)とフィリップ・センデロス(85年・現フルハム)の長きに渡る友情の物語だ。
当時、アーセン・ヴェンゲル(アーセナル・監督)は、まだ少年だったふたりと契約し、彼らを一緒に住まわせることを決めた。
「フィリップのことを話す時は、友だちについて話しているんだ」とセスクは二年間の共同生活を振り返って語る。センデロスはグアダラハラ出身のスペイン人の父を持つセンターバックだ。二人が初めて握手を交わしたのは、セスクが希望と不安を胸にロンドンに降り立った時だった。
セスクは彼との出会いをこのように回想する。
「フィリップと出会えたことは幸運だったよ。彼はカスティージャ語(スペイン語)を話したし、言葉(英語)の面でおれをいつも助けてくれた。おれはU-17のW杯に参加したから、彼の方がブレントンに一か月前に到着していた。だから彼が先に部屋を選んだんだ」
スイス人センターバックは巨躯だった。
「おれは2メートル四方の小さい部屋に暮らして、彼の方はスィート暮らしだ。だからフィリップがいなくなると、おれはいつも彼の部屋を使っていたよ」
ところがある日、セスクの友人がバルセロナから会いに来た。
セスクは笑って語る。
「おれたちふたりは外へ食べに出かけたんだけど、夜になって友人の具合が悪くなってね。バスルームに飛び込む時間がなくて、カーペットの上に吐いちまったんだ。クリーニングのしようもなかった。で、フィリップが帰ってきて、おれはもうすぐで殺されかけたよ」
セスクとフィリップは長い間分かち難い関係だった。彼らはもちろん家をシェアしていたが、セスクがバルセロナに寄るといつでも祖母が用意してくれたスープも分け合った。ふたりで一緒に車で移動した。ノリーン夫人は朝、彼らをトレーニングに連れていき、後でふたりをピックアップした。ふたりはロンドン中心部を一緒にくまなく歩いた。センデロスはいつもセスクに言ったものだ――「行儀よくしろよ、小僧」
「素晴らしい数年間だった。当時温めた友情はまだ続いている。おれたち、オックスフォード通りの店のことはよく知ってるよ」
セスクがひとつだけ後悔していることは、一年前に友人の結婚式に出席できなかったことだ。
「おれは南アフリカでのコンフェデレーション・カップに集中していて、出席することができなかったんだ」と彼は明らかな後悔を浮かべて話した。
その後、セスクはアーセナルで267試合に出場し、22歳の若さでキャプテンになった。センデロスは怪我に苦しんだものの、アーセナルで117試合に出場し、ミランとエヴァートンを経て、09-10シーズンの終わりにフルハムと契約した。
当時のことを「忘れ難い2年だ」と語るセスクは、現在、バルサへの移籍がささやかれている。
フットボール界において、FCバルセロナとレアル・マドリーのライバル関係ほど熾烈なものはない。だが、両クラブの象徴とさえ言われるイケル・カシージャス(レアル・マドリー)とチャビ・エルナンデス(バルセロナ)は、その影で個人的な友情を築いてきた。

ふたりの出会い
ふたりが出会ったのは、エジプトで開催されたU-17のワールド・カップのメンバーに招集された時だった。16才のチャビは初招集だった。この大会で、スペインは3位に終わったが、2年後の1999年4月には、ナイジェリアで開催されたU-20のワールド・カップで見事優勝を果たした。
カシージャスは「大会MVPは間違いなくチャビだと思っていた」と語る。しかし政治的な思惑も絡み、受賞したのは後にチャビのチームメイトとなるマリ代表セイドゥ・ケイタ(現バルセロナ)だった。この頃から、カシージャスは親友のチャビを「最高の選手」と度々評するようになる。ロナウジーニョ、メッシといったクラック(名手)がバルサでその地位を確固たるものにしても、カシージャスは「友情を差し引いても、おれにとってバルサで最高の選手はチャビ」と主張し続けた。
チャビにとっても、ライバルでありながら、イケル・カシージャスは選手として尊敬できる大切な友人だ。
彼の自伝によれば、「僕にとってラウールとカシージャスは、たとえレアル・マドリーの選手であっても特別な存在だ。(中略)彼らは生粋のマドリディスタでマドリーのために戦っている、一方の僕は正反対のバルセロニスタであっても、彼らには一目置かざるを得ない」という。
あくまで個人的な関係
ハンサムで女性に大人気のカシージャスは、連日マドリーのタブロイド紙の紙面を賑わせているが、硬派に見えて実はゴシップ好きを自負するチャビは、いつもそのことでカシージャスをからかっているそうだ。
ユース時代から、バルサの仲間たちからは「ペローポ(縮れ毛)」というあだ名で呼ばれているチャビだが、カシージャスいわく、チャビは彼にそう呼ばれると怒るらしい。
ふたりがやりとりするメールの内容は、両チームの状況やその時の順位などではなく、個人的なジョークがほとんどだという。チームに関することを内容に盛り込むことはなく、それはふたりの関係が、あくまで個人的な友情に基づくものだからだ。
2004年4月にサンチャゴ・ベルナベウで行われたクラシコで、チャビは試合終了間際にカシージャスが守るゴールを割った。ロッカールームで歓喜に沸いた後、バルセロナへ向かうバスの中で、チャビはカシージャスからのメールを受け取った。
「チャビ、今日のゴールのことは一生許さないからな!」
チャビは彼の心境を考え、あえて返信しなかったという。
チャビの自伝にはこんなエピソードも紹介されている。
カシージャスがある試合でコーナーキックのボールをキャッチに行ったところでミスをした。それを見ていたチャビは、「どこにギターを忘れてきたんだ!?」(ボールを取り損なってどこに置いてきたんだ!?)とメールを送ったそうだ。しかしそれは、マドリーが試合に勝ったことを確認した後のことで、ふたりはいつもお互いへのリスペクトを忘れないという。
腐ってもライバル同士
とはいえ二人はマドリーとバルサのキャプテン(チャビはキャプテン4人制をとるバルサの第二キャプテン)、強いライバル意識を抱いていることも確かだ。とりわけ、生粋のカタラン人であるチャビは、いつでもどんな時でもマドリーが負けることを願っているという正真正銘のクレ(バルサファン)で、09年に大型補強をおこない第2次銀河系を築いたペレス率いるマドリーが、CLの舞台から早々に敗退した時も大喜びしたことを後日、臆面なく告白した。
一方、カシージャスはもっとおおらかで、バルサがCLの準決勝で敗退した時は、「スペイン人として残念だった。バルサが(マドリーの本拠地)ベルナベウで決勝を戦うことを恐れていた人々もいたが、ぼくはそういうタイプの人間じゃない。あそこ(バルサ)には友人もいるしね」と大人の応対をした。
それぞれ世界最高と称されるゴールキーパーとパスの名手であるふたりは、いつしか両陣営の旗振り役を担うようになっていたが、スペイン代表ではともに戦うチームメイト同士。
13年前にアフリカで出会ったふたりも、30歳(カシージャス)と31歳(チャビ)になった。
2010年夏、ともに代表キャリアをスタートさせた地アフリカで、彼らはスペイン史上初のW杯優勝を目指す。
追記:7/11、スペインは初めてW杯優勝を果たした。試合後の二人。
ふたりが一緒に出演したCM
Euro08でスペインが優勝する直前に収録されたもの。
「ペナルティキックを決めて優勝できるが、そのかわり1年セックスができないとしたら?」という質問に対して、チャビは「間違いなく蹴る」イケルは「(やや消極的に)PKならどもかく蹴らなくきゃ」
ふたりのインタビュー。
チャビ「イケルにききたいね。彼は堅い、バルサ相手だと堅い。[笑うイケル] いつだってボールを止める。でも他の試合では、いつも成功してるわけじゃないだろ?」
イケル「オーケイ……どうしてクラシコになると変わるんだ? [笑うチャビ] 彼はすごく熱くなるんだよ。最後にベルナベウでおれたちが対戦した時も、すごく、すごく熱くなった」
チャビ「まあ、おれは彼と同じくらいヒートアップしたよ。というのも覚えてるだろ? カンプノウで戦ったクラシコでは、最後の5分か10分、彼はかなり熱くなってた。おれはしのぎを削り合って勝ったよ。最高だったね、マドリーはおれたちの永遠のライバルだから」
インタビュアー「相手チームから誰かを買うとしたら?」
イケル「チャビ」
チャビ「(笑って)いつも言ってるけど、カシージャスを買うよ。でも素晴らしい数シーズンを送っているビクトル・ヴァルデスに敬意を払うけどね」
インタビュー「相手チームの誰を恐れる?」
イケル「チャビとイニエスタ、でもアンリとメッシ、エトーも……」
チャビ「いまならラウール、イグアイン、相手のどんなトップスコアラーも。でも守備と、彼らの門番のことも」
09年11月

セルヒオ・ラモス(現レアル・マドリー)はセビージャ時代、一歳年上の親友、ヘスス・ナバス(セビージャ)のボディガード役を自負していた。二人は現在、スペイン代表のチームメイト同士だが、その関係は今も昔もさほど変わっていないようだ。
地元クラブ、ロス・パラシオスでプレーしていたナバスが、セビージャのスカウティング・ディレクター、ポール・ホワイトの目に留まったのは16歳の時だった。
「雨降りの日だった。フィールドはぬかるんでいた」とホワイトは回想する。「あの日はGKの少年と契約するためにあそこにいたのだが、私に最大のショックを与えた少年はヘスス・ナバスだった。彼は誰よりも素早く、誰よりも技術があり、素晴らしいドリブルの才能を持っていた。だが彼はあまりにも幼く見え、当時、誰も彼と契約を結ぼうとはしなかった」
セビージャはすぐにナバスと契約した。しかしながら、170cm、60kgと、今なお小柄で痩せっぽちのヘスス・ナバスは、最大の問題を肉体面ではなく精神面に抱えていた。
パニック障害(不安神経症)――それは主に、家族が暮らす故郷セビージャから遠く離れた際に、極度のホームシックとストレスによって誘発された。
最初の事件は、05年7月にウエルバで起きた。U-21の一員として参加していた合宿において、ナバスはトレーニング中に突然、何の理由もなく走り出し、練習場を逃げ出した。彼は練習場の近くに座り込んでいるところを、代理人や専属ドクターに発見された。話し合いの結果、ナバスは合宿に残る決意をしたが、翌日彼の父親と兄が会いに来ると決意を翻し、治療を受けるために代表チームを離れた(彼と同部屋だったパコ・グラシアは「できればその件については話したくない」とコメントした)。

セビージャのチームメイトであり、同じくU-21代表として召集されていたセルヒオ・ラモスは、ナバスの部屋にエキストラベッドを入れて付き添った。彼はその後も親友の助けになろうとした。ナバスがその心身の幼さゆえに、あるいは彼のバックグラウンドがヒターノ(ジプシー)にルーツを持つゆえに辛い時期を過ごした時、励ましてくれたのもラモスだった。
しかし、ナバスにはその後も不安神経症の傾向が見られ、トップチームに上がってからも、クラブの海外遠征には帯同せず、一人故郷に残り調整を行うこともあった。スペイン代表監督ルイス・アラゴネスは彼を招集することを望んだが、ナバスは心の問題を理由に、セビージャ会長を通して辞退の意向を伝えた。
06年、セルヒオ・ラモスはレアル・マドリーへ移籍した。ナバスの方は、セビージャの看板選手として成長していきながら、精神科医の指導の下、時間をかけて心の問題を解決する努力を続けた。
09年、ナバスは「代表でプレーする心の準備ができた」と発表した。これを受けてセルヒオ・ラモスもまた「彼は(あの頃と比べ)成熟した。彼には代表でプレーする準備ができている」「もし彼が代表に加わったら、おれがボディガード役を買って出るよ」と親友を援護した。同年11月、デル・ボスケ代表監督はナバスを召集リストに加えた。
ナバスはラモスと共に、スペイン代表としてアルゼンチンとの親善試合に出場した。
同年、フランク・リベリーのレアル・マドリー移籍の噂がフットボール界を賑わせるようになると、ラモスは「おれならリベリーよりもナバスを選ぶ」と発言。ナバスはこの発言を喜んだが、「今はセビージャでプレーすることだけを考えている」と語った。

10年5月、ナバスは6月に開幕するW杯の最終メンバーに、セルヒオ・ラモスと共に名を連ねた。
現在、彼はレアル・マドリーが獲得を検討している選手の一人と考えられている。



追記:優勝後




セビージャ時代。アントニオ・プエルタと二人(2005)。
ヘスス・ナバスの性格
ポール・ホワイトはヘスス・ナバスをよく知る人物だ。ナバスは、初対面の相手の前では子供のようにシャイで、ほとんどしゃべらないが、付き合ってみればとても好ましい青年(lovely person)だ、という。とある日本人解説者の語ったところによると、ナバスは相手の目を見て話すこともできなかったそうだ。


皮と骨だけのようだった一昔前。




ズラタン・イブラヒモビッチ(現バルサ)は19才の時、スウェーデンの故郷の町マルメから、アヤックス(アムステルダム・オランダ)に移籍し、そこで同い年のブラジル人、マクスウェル(現バルサ)と出会った。

強い個性の持ち主の自信家として知られるイブラヒモビッチだが、礼儀正しく穏やかな性格のマクスウェルのことは「親友」と呼んで憚らない。
2001から2004年までアヤックスでプレーした後、イブラヒモビッチはイタリア・セリエAのユヴェントスへ移籍。マクスウェルの方は05-06シーズンにインテルへの移籍が決定。非EU圏の選手に適応される規定のためエンポリを経て06-07年にインテルへ正式加入となった。その後、イブラヒモビッチもまた、ユヴェントスがセリエB降格となったためにインテルへ加入。ふたりはふたたび同じクラブでプレーすることになる。
彼らは代理人を共有しているためか、09-10シーズンにはイブラヒモビッチと移籍交渉を行っていたバルセロナが、ついでに左サイドバックの選手を欲しいということで、マクスウェルも一緒に移籍するに至る。こうしてふたりは、7シーズンに渡り三つのクラブで共にプレーすることになった。

お互いのことを親友と呼び合うふたりは、オフには一緒に釣りに行くこともあるという。
スウェーデンで製作された"Circus Zlatan"というドキュメンタリーの中で、イブラヒモビッチは「(ユヴェントスへ行く際)マクスを(イタリアへ)連れて行きたかったが……」と当時のことを話している。
遠征時、ふたりは同部屋らしく、イブラヒモビッチいわく「マクスはおれに我慢できる唯一の男」ということらしい。彼には11歳年上の妻との間にふたりの子供がいる。オレ様キャラで知られているが、好物はアップルパイという意外な一面も。
マクスの登場は06:12あたりから。
ズラタン「おれの親友だ。おれたちは長い間一緒にプレーしてる。アヤックスでは3年。そのあと、おれはユヴェントスへ行った。彼を連れて行きたかったけど、彼はそれほど良い選手じゃなかった……なんてね」
マクスウェル「ははは」
ズラタン「彼はインテルへ行って、いままたおれたちは一緒ってわけさ」
インタビュアー「で、ホテルに泊まる時は同部屋なの? どんな感じ?」
マクスウェル「……難しいけどー」
ズラタン「彼はおれに我慢できる唯一の男だ」
マクスウェル「わはは」
インタビュアー「一緒にいて、イライラするなあってことある?」
マクスウェル「たくさん、たくさんあるよ」
ズラタン「わははは」
インタビュアー「彼(ズラタン)、いびきをかく?」
マクスウェル「いや、おれがかくよ」
ズラタン「彼がかくよ。彼のせいでオレが眠れないんだ。時々真夜中に彼を平手打ちするんだ」
マクス「彼は部屋をとっ散らかすんだよ。きれい好きとはいえないね」
インタビュアー「散らかし屋なんだ」
マクス「散らかし屋だね」
ズラタン「だからヘレナと結婚したんだ」
マクス「ああ、奇跡だよね」
インタビュアー「部屋ではふたりで何するの?」
ズラタン「すべて、すべて。映画見るし、抱き合うし」
マクス「わはは」
インタビュアー「スプーン・スタイル(片方がもう片方を後ろから抱き締めるスタイル)で?」
ズラタン「ははは。時には彼の足がオレの上に乗っかったりして~」
マクスウェルはひじょうに敬虔なキリスト教徒であると自ら認めており、最初はこの救いようのない若者に手を差し伸べてやるか程度の気持ちだったのかもしれない。

バーリで頭角を現し、後にローマ、レアル・マドリー、サンプドリアという名門クラブを渡り歩いたアントニオ・カッサーノ(現サンプドリア)ほどの問題児はそう見当たらない。
バーリの下町に生まれ、決して恵まれているとはいえない環境で少年時代を過ごした彼は、"大人になりきれない子供"と伊メディアに揶揄され、これまでにも監督やクラブ首脳陣、ファン、メディア、そしてローマのキャプテンであり象徴であるフランシスコ・トッティと衝突するなど数々の〝誤り〟を犯してきた。
トッティは、レアル・マドリーを含むビッグ・クラブからの誘いを断り、子供の頃に忠誠を誓ったローマで現役生活を全うしようとしている、今時珍しい選手である。
ローマ時代、カッサーノはトッティの結婚式にも呼ばれた特別なチームメイトだった。カッサーノにとって、トッティは兄のような存在だった。二人はいつも、試合前にまるで儀式のように抱擁とキスを交わした。山あり谷ありの関係だったが、定期的にカッサーノの癇癪に直面したとしても、友情は長く続いていた。しかしそんな関係も'05年の10月を境に変わっていく。
伊メディアが'Cassanete'と命名したカッサーノの問題発言・行動がローマに悪影響を与え始め、カッサーノかローマか――どちらかを選ぶ決断を迫られた時、トッティに迷いはなかった。
カッサーノがクラブとの契約延長を拒否したことで、ベンチを温めるようになる頃には、トッティと彼の関係はすっかり緊張していた。カッサーノが6月に契約が切れた後にレアル・マドリーと自由契約を結ぶとクラブを脅し始めた時、彼らの関係はもはや後戻りできないところまで来ていた。
ローマはカッサーノを排除せねばならず、そのためレアル・マドリーは、その才能には釣り合わない安値で彼を手に入れることができた。
出会った頃、二人はその才能ゆえに他者とは一線を隔した存在だったが、彼ら自身は若くて無邪気でフットワークの軽い男友達だった。だがトッティの方はその人生において恋に落ち、結婚し、父親となり、やがてカッサーノをはるか後方へ置き去りにし、大人の男として成熟していった。
カッサーノはこう言った。「レアル・マドリーと契約したのは、選手として、人として成熟したかったからだ」と。ローマを去ることはそのカギだった。しかし問題は、'銀河系'が急速に衰えつつあったレアル・マドリーが、そうした試みに対し役に立つ環境だったかということだ。
レアル・マドリーで目立った成績を上げられず、'07年にイタリアに復帰したカッサーノは、現在サンプドリアの中心選手として活躍している。インタビューで「ようやく安住の地を見つけた。レアル・マドリーでは、一つのサル山にボスザルが何人もいてね」と話した。
'09年、カッサーノは8才年下の水球選手の女性(当時高校生)と結婚した。同年12月のローマ戦では、試合前にトッティと抱擁を交わす姿がTVに映し出された。

ダヴィド・シルバ(前バレンシア、現マンチェスター・シティ)が足の怪我で戦線離脱していた期間、チームメイトのアレクシス(バレンシア)が、彼を練習施設まで車で送り迎えしていたようだ。
二人はピッチ外でも親友で、週に何度も一緒にクラブへ行く仲だった。シルバの母親はアレクシスのことをもう一人の息子とみなし、アレクシスはシルバの兄弟ともつるんでいた。
10-11シーズン、シルバはマンチェスター・シティに移籍した。
この場面では二人がキスをしている(ように見える)ため、ちょっとした話題になった。
tag:David Silva Alexis
セルビア人のネマニャ・ヴィディッチとブルガリア人のディミタール・ベルバトフ(=以上マンU)は、共にバルカン半島出身、母国語もよく似ていることから、ベルバトフがマンUに移籍してきた後、二人は親しくなった。
'08年11月に行われたセルビア代表対ブルガリア代表の親善試合で対戦することになった二人だが、結果は4-1でセルビアの勝利。直後にマンUがアーセナル戦を控えていたため、彼らはクラブが用意したチャーター機で一緒に帰ってきた。費用は折半した。しかし機内では、つい数時間前に行われた試合については一切話さなかったそうだ。



フランク・ランパード(現チェルシー)は、手本となる選手が子供の頃から周囲にいるという恵まれた環境に育った。中でも、彼の従兄ジェイミー・レドナップ('05年に引退 注1)から受けた影響は大きかったようだ。
ランパードにとってジェイミーは憧れの従兄であり、フットボール選手としての手本だった。ジェイミーが22歳でファウラーらと並びリヴァプールの"spice boys"と呼ばれ人気実力共に大スターだった頃、自宅の豪邸で開いた誕生日パーティに16才のランパードも呼ばれた。そこにはファウラーら当時のリヴァプールのチームメイトや美女たちが大勢おり、自分はダ冴えないガキンチョの従弟なので、カッコいいジェイミーに構ってもらえるはずがない、と踏んでいたが、ジェイミーは全員に声をかけ、フランクのためにもちゃんと時間を割いてくれた。
17歳でジェイミーとそのいかした仲間たちと一緒に、キプロスにバカンスに行けると知った時は、嬉しくて大はしゃぎしたらしい。キプロスでも、ファンに囲まれても嫌な顔ひとつせず丁寧にサインに応じたジェイミー。そんな彼に対する熱い憧れを、ランパードは"I love Jamie the person"という言葉に託している。
選手としては、18才になってもリヴァプール所属のジェイミーに電話で相談していたらしい。当時ランパードはウェストハムに在籍していたが、ジェイミーは快く相談に乗ってくれた。
練習場で、二人だけで数字が書かれた壁の的を狙ってボールを蹴っていた時などは、ジェイミーが「1番」と言えば1番にあたるし、「2番」と言えば2番にあたる。フランクといえばゴールの枠に飛べば良い方だったが、ジェイミーは笑ったり嘲ったりせず、まず蹴る時の姿勢からアドバイスしてくれたという。
そんな二人にも、プロの選手同士、ピッチ上でぶつかり合う日がやってくる。ランパードの自伝によれば、その後、ウェストハムとリヴァプールの選手として、「彼とピッチで対戦した時は奇妙な感じがした」という。
中盤の選手同士、衝突した時、ランパードは激痛に襲われながら「ジェイミーがおれを傷つける?」とパニックに陥った。そんな彼に対してジェイミーは無言で背を向けた。しかしジェイミーもまたフランクを傷つけたのではないかと内心、心配していたという。
また、ジェイミーがスパーズに在籍していた時代には、ランパードはジェイミーの顔をスパイクで傷つけ、30針も縫う怪我を負わせてしまった。彼を傷つけたことは今でも思い出すたび、ランパードの心を抉るんだそうだ。
注1) 現スパーズ監督ハリー・レッドナップの息子。ハリーの妻はランパードの母パトリシア(故)と双子の姉妹
ランパード(右端)とジェイミー(右から2番目)

ハリー・レドナップを囲んで
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